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山形の米づくりの歩み 稲品種と栽培の系譜より(6)

  Ⅴ ササニシキの栄枯盛衰
 かつて、庄内平野4万ヘクタルの田んぼを埋め尽くしたササニシキ、本品種は昭和年に宮城県農業試験場古川分場で誕生した。父方ササシグレのササ、母方のハツニシキのニシキをとって命名したという。両親はともに良質米品種のエリ-トである。 山形県は1年遅れの昭和39年に奨励品種に採用した。ササニシキの優れた特性は穂の数が多く典型的な穂数型品種で多収・良食味であった。反面、作りにくい品種であった。肥料の施用方法が適切でないと青畳を敷いたように倒伏する。いもち病には弱い。そのササニシキが県内、とくに庄内で燎原の火のごとく広まった理由を、田中は「生産者の支持を得た第一は収量性であり、自主流通米発足(昭44)以降では収益性にある。そして消費地では消費者や販売者に受け入れられたことによる」と述べている。
水稲品種の作付け変遷.jpg 作りにくいササニシキの安定栽培のため県、庄内経済連(当時)の技術支援体制も見逃せない。経済連は昭和48年より米づくり運動を継続的に展開、「良質米高位多収穫実証田」運動を皮切りに、3年ごとに名称、目標を見直しながら14年間継続した。のみならず、特筆されるのがこれらの運動が単なる生産者の共励会にとどまらず、生産者の土壌、耕種概要、生育・収量などの詳細な調査データを成績書として取りまとめ、積み重ねてきたことである。運動に参加した生産者は延べ1000戸、生育・収量などの調査データも6万点に上る。  筆者は10)この膨大なデータに目を付けた。タイミングよく山形県農業試験場は新装(昭57)にともなってミニコンピュータを導入した。県農試独自でコンピュータを設置しているのは全国ではまだ珍しく、現在のパソコンが普及するずっと以前である。コンピュータを核に構築したのが「コンピュータ利用によるササニシキの生育診断・予測システム」である(昭57)。
生育の予測システム.jpg
 システムの流れを紹介しよう。①農業試験場、農業改良普及所(当時)が設置している作柄調査田の生育を10日ごとに調査する。②調査データを直ちにコンピュータに入力、そこからは10日先、20日先の生育や登熟の予測値が出力される。これを逐次予測と称した。③さらに気象情報、土壌窒素、稲体窒素、病害虫発生予察情報などを加え当面の対応技術を策定する。④農業改良普及所ではそれら情報に地域特有の環境に対応した技術を加え、全域の生産者へ逸早く情報を伝達する。⑤生産者はさらに独自に田んぼの特性を加味して穂肥の時期や量などを決定して対応技術を駆使する。 近年情報科学技術の進展で注目されている「スマート農業」は、「刻々と変化する状況に応じた、きめ細やかで、洗練された最適な生産管理を迅速に行う農業」といいかえることができると言う11)。とすれば、生育診断・予測システムは「スマート農業」の先駆けであったと思っている。その稼働によって、ササニシキの生産現場ではより積極的に生育コントロールのための対応技術が可能となり、生育の安定と収量向上が図られた。田中9)は50kg/10aの増収効果があったと解析している。
  本システムはササニシキの安定・高品質栽培に対する生産者と関係機関の強い意欲が下地となって、全国に先駆けて実用化されたが、その稼働は短期間であった。その背景には、平成2年に始まった自主流通米の入札制度があった。入札結果に、県内の産地には衝撃が走った。新潟米、宮城米と並んで御三家とも呼ばれていた「庄内米」ササニシキは宮城ササニシキ、秋田ササニシキをも下回り、また、内陸産ササニシキは東北6産地のササニシキで最も低価格であった。価格低下は想定外であった。  ササニシキ凋落の要因には、その食味特性とその低下にあったとも言われている。ササニシキの食味は、食感が柔らかく、甘みがあり、飽きのこないものであるが、粘りが弱い。このため、炊き上がりの食味は良いが、保存した場合や冷えたときの食味低下が大きい。家庭での炊飯が毎食から一日1回さらには数日に1回となり、ジャ-で保存したご飯を食べることが常態化する中で、粘りの少ないササニシキは次第に支持を失っていた。消費者の嗜好は、新登場した「あきたこまち」、「ひとめぼれ」、そしてコシヒカリ型の食味へと移り変わってきた。
 ササニシキは多収品種であった。収量を上げるた 実肥は食味を損なう.jpg

め肥料の施用回数が多くなり、ササニシキ本来の食味を損ね、市場評価を徐々に下げたのでないか。ササニシキが全盛を誇った庄内地方の米づくり技術の主流は稲穂が出てから施す追肥、"実肥"依存型にあった。ササニシキは良質多収を兼ね備えた優れものであるが丈が長く倒れやすかった。このため、倒伏を軽減し800kg/10a穫りで一等米を確保する技術が実肥の多数回施用であった。筆者らがこれらの米の成分を分析したところ、玄米タンパク質含有量は9%以上もの驚くような高い値であった。一等米イコ-ル良食味米でないことを示す結果であった。この研究結果を地元紙が一面で報道。その記事を抜粋すると、①全体の施肥量に対する穂肥(穂が出る20~15日前に施す肥料)が40~50%という穂肥にウエートを置いた栽培を行ったコメにおいしくないもの が多い、②穂が出てから8月20日こ ろまで実肥を何回も施したコメは美味 しくなかった。これらは食味にもっと も関係の深いタンパク質含量の分析結 果で分かった。 この結果は今では当たり前と受け 止められているが、当時としては、 コメのタンパクという用語を初めて 知ったという生産者がほとんどであ った。生産者には庄内ササニシキの おいしさは新潟産コシヒカリに負けず劣らないとの自負心があった。新聞報道に生産者の みならずJA関係者は大きなショックを受けた。筆者のもとには抗議が舞い込む。筆者の 体験を思い出すまま。
 県オリジナル品種「はえぬき」の誕生によって、ササニシキは半世紀近く主演であった 舞台に幕を下ろす。  

(2026年2月26日 09:56)

山形の米づくりの歩み 稲品種の栽培と系譜より(5)

 Ⅳ 冷害の克服
 山形県農業試験場百年史を紐解く。明治29年の創立から百年間の年表には冷害、大凶作の文字が目を引く。18回も現れる。5年に1回の割合で冷害が襲来したことがわかる。山形県をはじめ東北地方の米作りは冷害との戦いであった、といっても過言ではない。なかでも、甚大な被害が昭和9年である。山形新聞は「午後の学校には児童の姿は見えず、最上地方の人々は代用食物採取に忙しい」、当時の悲惨な状況を報道している。この冷害が契機となって、農林省は東北地方の各県に「凶作防止指定試験地」を1か所、山形県にはたびたび冷害に見舞われていた尾花沢に設置された。尾花沢は俳人芭蕉と曾良が元禄2年(1689)、現在の7月初め頃に訪れ、10日間逗留した地としても知られている。曾良は逗留期間中の天気を旅日記に「終日晴明の日なし」と記している。
 本県の冷害克服への本格的な取り組みが開始された。試験地は積雪寒冷地帯に適応する新品種育成を進め、「尾花沢1~5」号の5品種を命名するなど、これらの品種は東北、関東、北陸地方の凶作地帯に普及した。 筆者は、昭和50年代に6年間試験地に勤務した。研究員はわずか3名であった。しかし、そこには創立以来少数の研究員と長年にわたって支えてきた補助員とのチームワークが地の利を生かし、一貫して冷害克服に取り組む姿勢があった。筆者には思い出深い地である。と同時に、昭和51、55年に襲来した冷害に深水管理などの冷害対策はあるものの、実際場面では農家に受け入れがたい技術であることを、甚大な被害を前に痛感させられた地でもあった。試験地は、昭和57年に47年間の歴史に幕を下ろす。

尾花沢試験地.jpg

 それを見透かすように襲ってきたのが平成5年の大冷害であった。この年、オホーツク海高気圧が張り出し太平洋岸から湿った冷たい「ヤマセ」が奥羽山脈の切れ間から吹走、最上町、尾花沢市が甚大な被害を受けた。平成5年の冷害を回避する有効な手段は耐冷性品種であったが、当時の作付け品種は冷害に弱いササニシキが主流であった。耐冷性が強いと言われてきた品種の殆どは、品質・食味の形質は劣っていた。耐冷性と良食味の特性の間には負の相関があって、両立させる品種育成は難しいと神話のように言われ続けてきた。神話を打ち破ったのが「コシヒカリ」である。「コシヒカリ」は冷害に弱い、筆者もそう信じていた。それを一変させたのが、冷害を受けやすい幼穂形成期から穂ばらみ期(出穂前15日頃で花粉形成)に冷水を深く溜めてかけ流す「冷水の深水灌漑検定法」と呼ばれる新たな耐冷性の検定法であった。本方法で「コシヒカリ」が穂ばらみ期低温で発生する不稔障害(第1種型冷害)に強いことが分かったのである。「コシヒカリ」の耐冷性は「極弱」から「極強」へランク付けされた。 耐冷性育種の展望は一気に開けた。山形県が育成した「コシヒカリ」の血を引く「はなの舞」と「はえぬき」の耐冷性は「極強」でわが国ではトップクラス、「はえぬき」の食味は特Aにランクされる。宮城県が育成した「ひとめぼれ」も。その後、耐冷性強と良食味が結びついた品種が次々と育成される。良食味と耐冷性の特性が結びついた品種の誕生で冷害克服への長い道のりは一段落したかのようにも思える。近年は地球温暖化による高温障害が声高に叫ばれている。「冷害は忘れたころにやってくる」、蓋し、冷害の辛酸をなめた先人の教えである。 

耐冷性品種.jpg

(2026年2月24日 09:31)

山形の米づくりの歩み 稲品種と栽培の系譜より(4)

  Ⅲ 全国トップの多収県へ 

 明治時代からの米単収の統計を調べると、2石(300kg)以上は奈良、大阪、熊本、 滋賀などであり、山形県はたびたびの冷害に遭遇したこともあり200kgほどの低収であ った。この時代の多収県は稲作先進地であった西日本に限られていたと言えよう。単収が 急上昇し、稲作生産力が東低西高型から東高西低型へと切り替わったのは昭和30年代か らである。戦後の復興期から高度成長期に入るという社会情勢を背景に、ひたすら米の生 産力向上を図り、米自給の確保を目指すという食糧増産一辺倒の時代であった。早生・ 耐冷性・耐病性・多収性品種の登場、保温折衷苗代の普及、加えて山形県独自の分施技術 の普及、農薬の開発などの稲作技術が一斉に開花し、単収は昭和20年代の350kgから 30年代には450kgへ、そして40年代には550kg以上へと駆け上がる。  単収向上の第1の要因が保温折衷苗代 による健苗育成である。 
保温折衷苗代と は、苗床に種もみを播き、その上に焼き もみ殻をかけ、
保温折衷苗代.jpg温床紙で覆って保温する 。苗が温床紙を持ち上げる程度に生長し たと
き温床紙を外し、苗床に灌漑水を 張り、水苗代と同じようにして育てる。
本苗代によって、苗代期間が短くな ったばかりか、葉や根のしっかりし
た苗 を、慣行の6月中旬植えに比べ、1か月 近く早い田植えが可能になった。 "苗半作"といわれるほどで、苗の出来、不出来がその後の生育や収量
に大きく左右する ことから、このような苗代を一日も早く、が東北農民の
悲願であった。 野菜温床で見つけた種もみの芽にヒントを得て保温折衷苗
代を生んだのが長野県の篤農 家荻原豊次、その技術を確立したのが長野県
農事試験場原村冷害試験地の岡村勝政技師、 そして技術を高く評価し理論づけたのが元東京農工大学長の近藤頼巳であった。昭和22 年「農業及園芸」誌に「水稲の保温折衷苗代による寒地育苗の改善」を掲載した。保温折 衷苗代は、長野県、東北地方に燎原の火のごとく広がり、当時育成された多収品種「藤坂 5号」との両輪で東北地方の収量は飛躍的に向上する。
 第2が「藤坂5号」などの多収品種の育成である。藤坂5号は昭和24年に青森県農業 試験場藤坂試験地(当時)で育成された。耐冷性が強く、短稈で多収、全国で66000ha 作付けされ、昭和28,29年の冷害に威力を発揮する。藤坂5号の食味はパサパサして粘 りがないなど、コシヒカリの食味とは対照的である。しかし、本品種が戦後の食糧難を切 り抜けるのに大きな貢献をしたと言ってよい。育成者の田中稔はその功績が認められ、内 閣総理大臣賞を受賞する7)。田中稔は天童市高擶の出身である。 藤坂5号の交配親は陸稲「戦捷」の血を引く「双葉」と「善石(ぜんこく)早生」であ る。「善石早生」は、庄内の民間育成品種で育成者は東田川郡余目町南口(現庄内町)生 まれの伊藤石蔵である2)。善石早生がどのくらい栽培されたのか記録はない。しかし、そ の名を不滅にしているのは、善石早生が藤坂5号の親となっただけでなく、その藤坂5号 を通じて、フジミノリ、レイメイ、アキヒカリ、キヨニシキ、トヨニシキの多収品種、 そして山形県が育成した超多収品種「でわちから」、「雪化粧」にもその血が伝えられたか らである。
多収品種の系譜.jpg  コシヒカリ、藤坂5号、その後代品種群、そ れらの品種の DSC_1032.JPG
系譜には常に先人たちが苦労 したレガシ-の上に成り立って
いる。前の品種 がなければ新しい品種ができないからだ。農
林 1号の親となった森田早生、藤坂5号の親となった善石早生、
奇しくも庄内平野の余目町に生を享け農民育種家によって創選
されたもので ある。田んぼに立ち尽くし、品種改良に一生をささげた名もない育種家の情熱こそが、我 が国の稲の系譜に大きな足跡を残したと言って過言ではない。
 真夏の太陽が容赦なく照り付ける農業試験場の試験田、麦藁帽をかぶり、流れ落ちる汗 を拭こうともせず稲穂を握りしめ、時折メモを取る。多収栽培研究の第一人者吉田浩8)で ある。その年の収量は坪刈成績で900kg/10a、吉田は研究の成果を喜びながらも1000 kgに届かなかったと悔やむ。筆者が目の当たりにした試験田の穂波、50数年経った今 も、この光景を鮮明に記憶している。  東京オリンピックが終わり、日本中が活気づいていた昭和40年代初め、山形県内はコ メ作りに情熱を燃やす精農家が群雄割拠していた。とりわけ置賜地方で多く輩出した。川 西町で御三家とも呼ばれた片倉権次郎、寒河江欣一、大木善吉の田んぼには出来秋ともな ると、その圃場を参観する人たちが門前市をなすほどであった。多収穫を競い合う精農家 達に、農業試験場も負けてはいられない。多収栽培に挑戦、昭和43年には山形県農業試 験場置賜分場(南陽市)が1000kg/10aの大台を突破、1007kgを記録した。 多収を支えた基盤技術が、山形県が開発した品種「でわみのり」、「たちほなみ」、「でわ ちから」であった。いずれも強稈で倒伏には極強、多肥多収の特性を持っていた。この 品種特性に適合したのが区分施肥法と呼ばれた追肥法である。区分施肥法は吉田8)が独自 に編み出した技術で、穂の発育に合わせて少量ずつ何回かに分けて窒素肥料を施用する。  多収穫栽培は当然ながら県内の米作り農家を刺激した。昭和42年には県単収 567kg/10a、佐賀県を抜いてトップに、続いて、43年には569kg、45年には577kg を上げ、連続トップに輝く。まさに米作県として面目躍如であった。
多収記録.jpg  吉田による区分施肥法は本県の多収栽培に大きく貢献したが、その基になっているのが、水稲分施の理論である。水稲分施法は昭和7年頃より、県農事試験場が7月15日に硫安を分施することで収量が高まることを、また、田中正助9)(東村山郡金井村:当時)もまた江俣実行組合で試験を繰り返し増収なることを確認していたが、県内農民は分施技術の存在については全く知らなかった。この分施が理論的に増収をもたらす点は稲が栄養生長から生殖生長に移る幼穂形成期にあたり、この時期に追肥を施せば穂の発育に役立つからである(注:分施は基肥としていた肥料を分けることで、現在施用している追肥とは異なる)。この分施が県の奨励技術となるのは昭和15年である。当時の石黒県知事が分施技術に興味を示したこともあり、田中正助は分施技術の普及に奔走する21)。田中正助は、分施法の理論と実践のみならず、工藤吉郎兵衛の支援の下に「日の丸」を育成、本品種は戦中・戦後を通じて最高2万ha作付けされている。 分施法は戦後になると置賜の篤農家層によって追肥重点・後期重点施肥の多収技術に発展し、前述したように吉田浩が確立した区分施肥法へとつながる。また、戦後の増収に大きく貢献したといわれる松島省三によるV字施肥法(V字稲作)も分施に派生した技術である9)。                     

    田中正助.jpg  IMG_20251003_083756.jpg

 単収全国トップの喜びの余韻に浸る間もなく、米作りは厳しい試練に直面する。昭和46年から開始された減反政策である。品質・食味が劣った「でわみのり」などの多収品種は一斉に姿を消す。代わって良質品種として名を馳せていた「ササニシキ」が燎原の火のごとく拡大していくことになる。  多収華やかなりし頃から10年後、筆者は尾花沢試験地で育種に携わる。昭和52年、「び系94号」と「奥羽301号(のちのアキユタカ)」を交配、F6世代まで育てた。この組み合わせは、葉色が濃く長稈で穂が長く多収の特性を具備していた。一目で多収品種になる、と確信した。のちに、本組み合わせは「山形22号」の系統番号が付与され、「雪化粧」と命名される。農業試験場は本品種で1025kg/10aの超多収を記録している。蛇足ながら、紹介しておこう。

(2026年2月18日 11:01)

酒米コンテスト入賞者、ゆびきりげんまん健闘

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 ゴールド賞(山形県知事賞)を受賞した大沼敦(左)、田中恒夫(右)さん
DSC_0617.JPG           表彰状を手に、受賞したゆびきりげんまんのみなさん
 良質な酒米の安定生産を目指す、第27回酒米の里づくりフォーラムが16日開催されました。本年度優良酒米コンテストでは、9部門の入賞者のうち、8部門をゆびきりげんまんのメンバ-が占めました。受賞されたゆびきりげんまんの皆さんは次の通りです。
「雪女神」の部: ゴールド賞(山形県知事賞) 大沼 敦さん 
         シルバ-賞(全農山形県本部会長賞) 指村貞芳さん
「出羽燦々」の部:ゴールド賞 田中恒夫さん
         シルバ-賞 中嶋博幸さん ブロンズ賞(酒米協議会長賞)長沼和弥さん
「出羽の里」の部:ゴールド賞 田中恒夫さん、シルバ-賞 後藤喜代子さん、ブロンズ賞 井上成也さん
また、卓越生産者には大沼敦さんが選ばれるなど、ゆびきりげんまん大健闘です。
 酒米生産に取り組むグル-プの活動については、本ブログでもたびたび紹介しています。グル-プは平成22年に結成以来、毎年、産米の品質調査、圃場巡回、成績検討会を行うなど、研さんに努めてきた成果が一斉に花開いたのでしょうか。緊褌一番、今回の受賞を機に、本年の酒米づくりに意欲を高めたことは言うまでもありません。

(2026年2月18日 09:32)

山形の米づくりの歩み 稲品種と栽培の系譜より (3)

 Ⅱ コシヒカリ誕生と山形ゆかりの先人
 手元に2枚の写真がある。一枚は山形県庄内町に建立された水稲品種「森多早生」の育成者森屋正助の頌徳碑、今一枚はガラス原版の山形県農事試験場尾花沢試験地初代主任杉谷文之である。いずれもコシヒカリ誕生にかかわった山形県ゆかりの先人である。
 「日本一うまい米」として評判のコシヒカリは、太平洋戦争末期の昭和19年、農林22号を母、農林21号を父として交配され、戦後の食糧難時代に新潟県、福井県農業試験場にて選抜・育成された。食糧増産が至上命題で食味など眼中になかった時代に、なぜ最高の食味の品種が生まれたのか。コシヒカリが歩んだ日本一の座までの道のりは、人生に例えるならば、まさに波乱万丈であった。その詳細は酒井5)に譲るとして、本稿では、コシヒカリ誕生にかかわった冒頭の先人のエピソ-ドを紹介したい。
 コシヒカリの父方の農林1号は大正11年に国立農試陸羽支場で森多早生を母、陸羽132号を父として交配、第5世代以降は新潟農試で選抜育成され、北陸地方を中心に最高17万ヘクタ-ル近く作付けされたほどの優れた品種であった。 農林1号の母方の森多早生は、山形県東田川郡余目町(現庄内町)の森屋正助が、大正2年に東郷2号の変種を選抜して育成したもので、命名は家号の森屋多郎左衛門に由来する。森多早生は当時の品種としては丈が短く、強稈であった。この品種自身も、山形県で千ヘクタール余り作付けされた。  ところで、地元では長い間この品種の育成者は森屋巳之助と誤記されていた2)。これは、正助が育成当時まだ22歳であったため、町役場の係員がそんな若者が品種を創るはずがないと考え、父親の名前にしたという。  森多早生は農林1号の親となったことで、コシヒカリとササニシキにその血を伝えることになった。庄内町には平成元年に翁の頌徳碑が建立され、碑には

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「米は日本人の命/量足りて質求められる時代/今冠たるに二大銘柄/コシヒカリとササニシキ/この優れた血を残した品種に森多早生がある/今さかのぼる大正二年二十二歳/異色の精農家正助青年なり/歳月刻み日洵新なり/先人の偉業子々孫々に伝えん/」、と刻まれている。
良食味米品種の系譜.jpg  「栽培法によって克服できる欠陥は、致命的欠陥にあらず」との鶴の一声で、倒れやすく○○稲とまで揶揄された「越南17号」(後のコシヒカリ)を新潟県の奨励品種に採用したのが新潟県農業試験場長杉谷文之である5)。杉谷は昭和10年、農事試験研究のメッカ鴻巣試験地から新設なった山形県農業試験場尾花沢凶作指定試験地に初代主任として赴任した。尾花沢試験地は昭和9年に東北地方を襲った大冷害を契機に設立され、ここでの研究は冷害に強い品種育成と栽培法の改善にあった。同17年に退任し、のちに新潟県農業試験場長になる。尾花沢試験地時代に尾花沢1号、同2号の穂の数は少ないが穂が大きい特性の品種を育成するとともに、冷害に強く同時に増収にも寄与する肥料の分施栽培法を研究している。分施法は、山形県が全国に先駆けて官民一体となって普及奨励した増産技術であった。 
氏杉谷.jpg  尾花沢系統.jpg

   尾花沢試験地創立当時の杉谷文之(前列右から二人目)6)と当時育成した品種
 コシヒカリの親は農林22号と農林1号である。農林1号は亀の尾の孫であり、農林22号は西日本の代表的な良質米の旭の孫である。ともに、毛並みは最高だ。敗戦の色濃くなった昭和19年に新潟県農事試験場指定試験地で交配され、雑種第3世代から福井県農業試験場で選抜されるが、幾多の試練が待ち受ける。福井大地震に見舞われ、枯れる稲が続出したが、コシヒカリのみが生き残った。しかし育種本来のねらいである多収・耐病性・耐倒伏性の特性は最低であった。秋の熟色が美しいのが唯一注目され、のちにコシヒカリとなる系統に「越南17号」の系統名を付ける。「越南17号」の試験は新潟県をはじめ全国23県で行われたが、その評価は散々であった。地元の福井県でさえ奨励品種への採用を見送る。丈が長く、茎が細く倒れやすい、草型も昔タイプの穂重型でイモチ病に弱い、という評価のためであった。ただ独り、杉谷文之が「新潟県のために、これを奨励品種にしなければならない」と叫んだという5)。
 コシヒカリは、新潟県が奨励品種に採用しなければ農林番号品種になることもなく、埋もれたであろう。コシヒカリが日本一おいしい品種として驚異的な普及を見せているのは、ワンマン場長とも呼ばれていた杉谷が周囲の反対を押し切って強引に「越南17号」を奨励品種に採用したおかげである。では、杉谷はこの系統のどこにほれ込んだのだろうか。  コシヒカリは穂数の少ない穂の大きな穂重型の草型である。杉谷が山形県尾花沢試験地時代に育成した「尾花沢1号」も穂重型品種である。想像ではあるが、穂重型のコシヒカリは杉谷の好みのタイプで、杉谷にとって第1印象としてかなり相性のよい品種だったのでないか。今一つ、この品種を倒さずに安定的に栽培する技術に尾花沢時代に研究した分施栽培法が役立つのでないか。すなわち、元肥一本やりの施肥法でなく、元肥量を減らし、その減らした分を出穂前に施用することで、コシヒカリを倒れにくくすることが可能である。杉谷の鶴の一声は尾花沢時代の研究で裏付けられた技術的自信があったからであろうか5)。
 歴史にifはないが、もし森屋正助が庄内で森多早生を創選しなければ、もし杉谷文之が尾花沢に赴任しなければ、コシヒカリはこの世に生まれたであろうか。

(2026年2月16日 10:13)

山形の米づくりの歩み ― 稲品種と栽培の系譜より― (2)

abekamezi.jpgⅠ うまい米を育む先人の汗  

 うまい「お米」は、と聞かれれば、ほとんどの人は「コシヒカリ」と答える。うまい米 の代名詞ともなっている「コシヒカリ」、そのルーツをたどれば、「亀の尾」という品種に 突き当たる。  いまから133年前、明治26年9月29日、山形県東田川郡立谷沢村(現庄内町)の熊 谷神社に向かう道を、東田川郡大和村大字小出新田(現庄内町)に住む26歳の農民阿部 亀治が通りかかった。道脇は棚田で、山から流れ出る冷水がかけ流しされていた。水口付 近のほとんどが無残な姿の稲の中に、黄色く熟れている3本の穂を見つける。その穂をも らい受けて帰った亀治は、翌年から4年
間にわたり、失敗を重ねながらも、この穂を育て 創選したのが
「亀の尾」である2)。

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「亀の尾」は多収良質で市場評価が高かったこと、早稲で冷害回避に役立つこと、乾田馬耕の進展と施肥量増加に適応したことから、最盛期には山形県のみならず東北地方を席巻した。朝鮮半島にまで普及し、栽培面積は万haに達した。のみならず、「亀の尾」は多くの品種改良の交配母本ともなり、その特性は「陸羽132号」(日本初の人工交配による品種で大正10

年(1921)、国立農事試験場陸羽支場で育成)、さらに「陸羽132号」と「森多早生」(大正2年(1913)東田川郡余目町(現庄内町)森屋正助が育成)の交配から「農林号」が育成され、「コシヒカリ」へと引き継がれる。 「亀の尾」のひ孫、そして「森多早生」の孫、奇しくも庄内の民間育種家が育成した品 種から誕生した「コシヒカリ」は、全国での作付けシェアは昭和54年(1979)以来今日 までトップを走り続けている。「コシヒカリ」の血は、山形の主要品種「はえぬき」、「つ や姫」をはじめ、「ひとめぼれ」、「あきたこまち」など全国の名だたる現在の著名品種の すべてに入っている。うまい米の品種改良の歴史は、庄内の民間育種家の功績抜きには語れないのである。  亀冶が目の当たりにし育てた、たった3本の穂、この穂がなければ、今日の「コシヒカ リ」も、もちろん「はえぬき」も、「つや姫」も誕生しなかったかもしれない。品種を育 成する育種という事業は、科学的基盤に立って、長年月を必要とする。しかも経費が掛か り簡単になしうるものではない。経済的に利益があるとはいいがたい。にもかかわらず、 亀治を駆り立てたものは何か、こめづくりへの情熱とロマン以外何ものでもない。"先人の 汗"は、山形の米づくりのレガシーであり、それは今にまで綿々と引き継がれている。
 山形県の米づくりの歩みは、庄内平野が生み育てた農民による品種改良を抜きにしては 語れないであろう。明治初期、国、県に農事試験場が設立され、後期には人工交配などを 取り入れた近代的育種が行われるようになった。このような情勢の下、それまで主流であ った農民自らの育種は急速に影を潜めた。ただ一つの例外があった。庄内地方である。そ こには庄内の農民が稲に注いだ情熱の深さが象徴的に表れている。  明治中期から第2次大戦の終わりころまで、山形県の品種はほとんど、庄内の農民が育 てたと言っても過言ではない。阿部亀治が創選した「亀の尾」(明治26年、1893)を嚆矢 とし、育成された品種は170にも上る2)。 「亀の尾」に遅れること約20年、「福坊主」が誕生する2)。最大作付けの昭和14年に は全国で69千haを超えた。育成者は、そのなした仕事といい、育種規模といい庄内の民 間育種家の双璧と言われた工藤吉郎兵衛である。「福坊主」は自分で育成した「敷島」に 「のめり」という品種を大正4年に人口交配して育成したものである。多収であった。当 時、農事試験場陸羽支場で育成した「陸羽132号」は品質、食味が良く市場評価は高かく 東北地方を席巻したが、山形県では「福坊主」を抜くことはできなかった。
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 吉郎兵衛が住む鶴岡市大山は酒造の町であったこともあり、酒米の育成をも手掛けて いる。「酒の華」、「京の華」、「国の華」の酒米三部作である。現存する「京の華」は「酒 の華」と兵庫県の酒米「新山田穂」を交配したもので、昭和58年福島県会津の蔵元で幻 の酒米として復活している。 吉郎兵衛は明治38年46歳の時に山形県農事試験場から派遣され、農商務省農事試験場 畿内支場で人工交配技術を習得した。以後79歳まで人工交配を続け、その数360組合せ に達した。6~7haの経営地のすべてを育種圃場にしていたという。その規模は農事試験場 を凌駕するものであった。農民による稲の育種は、年月を要し、労力を要し、経済的には 引き合わない行為である。吉郎兵衛をそこまで駆り立てた動機は何であったか。菅2)は次 のように述べている。「おそらく吉郎兵衛の脳裏には、庄内平野を埋めつくして栽培され た自分の育成品種が穂を出して風になびいている光景に彷彿としたのでないか。それは利 害を超越して何か新しいものを生み出した時の科学者の喜びに近い感情ではなかったかと 思うのである」。 吉郎兵衛は昭和20年終戦直後に86歳で没した。イネに魅せられ、庄内の気候風土に適 したイネを求めて、その改良に生涯をかけた人生であった。その後、官営の育種組織が整 備され、そこからは続々と新品種が生まれつつあった。そのような情勢の中で、庄内平野 が生み育てた農民による育種は終焉を迎える。 庄内農民育種家が創選した亀の尾と福坊主、亀の尾の血はその後コシヒカリなどのわが 国を代表する良食味品種へ面々と受け継がれ、今もって名声を博している。「福坊主」の 系譜は吉郎兵衛が交配し、田中正助(後述)が育成した「日の丸」までの三代で途絶えた。吉郎兵衛が成し遂げた偉大な業績は歴史の中に埋没しつつ ある。しかし、彼が抱き続けた思想は、山形県立農業試験場庄内分場(現水田農業試験 場)へと引き継がれている。講堂に掲げられた吉郎兵衛翁の肖像を背に、育種圃場を駆け ずり回った筆者はそう思っている。「はえぬき」、「つや姫」、そして「雪若丸」の誕生にか かわった研究員一人ひとりにも。
  若き農業者阿部亀治が3本の穂を冷水田から発見した1893年(明治26)、酒田に米の保管庫山居倉庫が建設されたことを付け加えておこう。米の保管倉庫といえば、全国の米流通に名を馳せ、130年間にわたって稀有な役割を果たし、2021年(令和3年)国の史跡に指定された山形県酒田市の「山居倉庫」を抜きにしては語れないであろう。倉庫は最近まで現役として政府備蓄米の保管にも活用されてきたが、その役割を終え、2023年、酒田市に公有化されている。  山居倉庫は4)、1893(明治26年)、鵜渡川原村山居(現酒田市)に建設された。この地は新井田川と最上川の合流点に近く、当時、米の大量輸送は船によっていたのでこの地が選定されたという。倉庫は昭和初期まで計14棟が建設され、現在はこのうち12棟が残る。その内部構造には先人の叡知が数多く生かされている。当時、米倉庫の保管目標は、入庫時の米の状態をいかにして出庫まで持続できるかであった。軟質米(玄米水分含有量15%以上)産地の庄内地方にあっては、米質を維持しながら梅雨期を越すという難問題があった。1棟の貯蔵能力は4斗俵(60kg)で16442俵の品質を維持するため、①周囲は6寸(18㎝)の壁に塗り固めた土蔵造り、②屋根は二重構造でその間の空気の流通をはかり、積み重ねた俵の熱を放散すると同時に、屋根からの伝導熱を防ぐ、③換気窓は天窓をはじめ、合掌や側面に綿密な計算のもとに配置された、④土間は苦塩汁(にがり)で練り固めた二尺(61㎝)の深さの敲き(たたき)にし、⑤さらに土間の上には塩を一寸(3㎝)厚さに敷き、倉庫内の湿気を吸収するようにした。そして、⑥日本海の方から差し込む強い西日と、吹き込む強風を防ぐために欅の並木を植えた。欅は見事な巨木となり倉庫を覆うとともに、今は酒田を代表する景観となっている。  軟質米として夏季の保存に弱い宿命を負っていた庄内米が、夏季に入っても売り急ぐことも、買いたたかれることもなく、有利に販売できるようになったのも、中央市場で日本一と評されるようになったのも、この倉庫の水も漏らさぬ保管設備に負うことが多かった。設備だけではない。旧荘内藩重臣菅實秀(すげ さねひで)は、「米の取り扱いは、神に祈誓する心をもってせよ」と指導した。倉庫職員の多くは菅實秀の薫陶を受け入れた人々であったという。菅實秀は戊辰の役後、西郷隆盛と"兄弟の交わり"をした傑物としても知られている。のみならず、豪商本間家は小作人に対し米の乾燥方法などを指導、米を検査して3等以下は倉庫に入れないなど、市場ニーズを見据え、売れる米を生産する「産米改良」にも注力した。130年も前に建設された米貯蔵倉庫が、現在の近代的な倉庫の保管機能と比較して、決して遜色がないのは、この倉庫が庄内米の声価を高めるため、先人たちが米への徹底した考慮を払ってきたことにある。
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(2026年2月10日 13:39)

山形の米づくりの歩み ―稲品種と栽培の系譜より― (1)

はじめに  

炭化米.jpg約2500年前の縄文時代後期、大陸から九州から流れ込んだ米づくり文化は、たった1世紀ほど遅れただけの紀元前二世紀には庄内の地へと達した。対馬海流に乗ってきたであろうパイオニアによって。酒田市生石登路田で、北九州の遠賀川(おんががわ)流域で作られた弥生土器とともに、炭化した10数粒の籾も発掘されたのである1)。 稲作は最上川を遡上して内陸部へと拡大していく。県内の水田稲作の遺跡のほとんどすべて川の近傍に存在する。最上川が稲作を伝播するルートであったことは想像に難くない。
 17世紀初頭には出羽国が成立、16~17世紀にかけて今の山形の村や町の母体である村々が誕生した。春には苗代を作り、タネもみをまき、田起し、代掻き、田植え、草取りに追われ、ほっと一息つく間もなく収穫を迎える。米作りは重労働であった。時には自然は厳しく、大凶作の洗礼を受けながらも、大地をふみしめて、懸命に生きる農民の強靭な生命力とともに米づくりは今日まで面々と引き継がれてきた。  さて、8世紀の中頃(奈良~平安時代初期)の米収量は約100kg/10aだったとの記録がある。寒冷地の山形はもっと低かったであろう。その後、明治時代に入るまで、単収はほとんど増えなかったという3)。 また、水稲品種は気象的、生態的に異なった各地において、農民自身が、おそらく突然変異や自然雑種に由来する変異体を選抜して育成してきたものであった。米は特に戦国時代以後、武士の禄高が米の石で表現されるほど経済の中心であったにもかかわらず、各藩が

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その品種改良に意を砕いたような形跡はほとんどない。したがって、イネの多様な在来品種は明治期までは農民自身がときおり生起する変異を、選抜してきたものがほとんどであったと思われる2)。 明治12年(1879)からは年次ごとの収量が明らかとなる。明治初頭の収量は約200kg/10aであった。福岡県から塩水選、乾田馬耕などの稲作改良技術が導入される。技術革新が進むにつれ、在来の品種では新しい条件に適応せず、新しい技術に適応した品種が求められたのは当然の成り行きでもあった。これに応えた品種が「亀の尾」であった。  明治16年から現在まで、山形県における140年間の米作りの変遷を図に示そう。この間、収量は600kg/10aに到達した。収量が100kgから200kgの2倍になるのに千年要したことを考えれば、約150年で400kg増収したことはすばらしい記録である。収量のみならず、米作りの労力は昭和25年ころの10a当たり労働時間200時間であったのに対し、現在はその十分の一まで削減した。  飛躍的な増収や労力の削減は、品種改良、栽培法の改善、農業機械、除草剤の開発などの技術革新、圃場、灌漑施設の整備があったに他ならない。筆者が山形県の米づくりの技術者として田んぼを歩き回って60数年になる。山形の米づくり2000年の歩みからみれば一歩にも満たない。しかし、この一瞬の時は、米づくりにとって、品種・栽培法の変遷図に示したように一大変革期であった。  筆者の記憶と経験をまじえながら、品種と栽培法改良の系譜を中心とした山形の米づくりの歩みを述べてみよう。
(注)引用文献は本シリ-ズ最終回に一括掲載

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(2026年2月10日 12:08)
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