山形の米づくりの歩み 稲品種と栽培の系譜より (3)

 Ⅱ コシヒカリ誕生と山形ゆかりの先人
 手元に2枚の写真がある。一枚は山形県庄内町に建立された水稲品種「森多早生」の育成者森屋正助の頌徳碑、今一枚はガラス原版の山形県農事試験場尾花沢試験地初代主任杉谷文之である。いずれもコシヒカリ誕生にかかわった山形県ゆかりの先人である。
 「日本一うまい米」として評判のコシヒカリは、太平洋戦争末期の昭和19年、農林22号を母、農林21号を父として交配され、戦後の食糧難時代に新潟県、福井県農業試験場にて選抜・育成された。食糧増産が至上命題で食味など眼中になかった時代に、なぜ最高の食味の品種が生まれたのか。コシヒカリが歩んだ日本一の座までの道のりは、人生に例えるならば、まさに波乱万丈であった。その詳細は酒井5)に譲るとして、本稿では、コシヒカリ誕生にかかわった冒頭の先人のエピソ-ドを紹介したい。
 コシヒカリの父方の農林1号は大正11年に国立農試陸羽支場で森多早生を母、陸羽132号を父として交配、第5世代以降は新潟農試で選抜育成され、北陸地方を中心に最高17万ヘクタ-ル近く作付けされたほどの優れた品種であった。 農林1号の母方の森多早生は、山形県東田川郡余目町(現庄内町)の森屋正助が、大正2年に東郷2号の変種を選抜して育成したもので、命名は家号の森屋多郎左衛門に由来する。森多早生は当時の品種としては丈が短く、強稈であった。この品種自身も、山形県で千ヘクタール余り作付けされた。  ところで、地元では長い間この品種の育成者は森屋巳之助と誤記されていた2)。これは、正助が育成当時まだ22歳であったため、町役場の係員がそんな若者が品種を創るはずがないと考え、父親の名前にしたという。  森多早生は農林1号の親となったことで、コシヒカリとササニシキにその血を伝えることになった。庄内町には平成元年に翁の頌徳碑が建立され、碑には

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「米は日本人の命/量足りて質求められる時代/今冠たるに二大銘柄/コシヒカリとササニシキ/この優れた血を残した品種に森多早生がある/今さかのぼる大正二年二十二歳/異色の精農家正助青年なり/歳月刻み日洵新なり/先人の偉業子々孫々に伝えん/」、と刻まれている。
良食味米品種の系譜.jpg  「栽培法によって克服できる欠陥は、致命的欠陥にあらず」との鶴の一声で、倒れやすく○○稲とまで揶揄された「越南17号」(後のコシヒカリ)を新潟県の奨励品種に採用したのが新潟県農業試験場長杉谷文之である5)。杉谷は昭和10年、農事試験研究のメッカ鴻巣試験地から新設なった山形県農業試験場尾花沢凶作指定試験地に初代主任として赴任した。尾花沢試験地は昭和9年に東北地方を襲った大冷害を契機に設立され、ここでの研究は冷害に強い品種育成と栽培法の改善にあった。同17年に退任し、のちに新潟県農業試験場長になる。尾花沢試験地時代に尾花沢1号、同2号の穂の数は少ないが穂が大きい特性の品種を育成するとともに、冷害に強く同時に増収にも寄与する肥料の分施栽培法を研究している。分施法は、山形県が全国に先駆けて官民一体となって普及奨励した増産技術であった。 
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   尾花沢試験地創立当時の杉谷文之(前列右から二人目)6)と当時育成した品種
 コシヒカリの親は農林22号と農林1号である。農林1号は亀の尾の孫であり、農林22号は西日本の代表的な良質米の旭の孫である。ともに、毛並みは最高だ。敗戦の色濃くなった昭和19年に新潟県農事試験場指定試験地で交配され、雑種第3世代から福井県農業試験場で選抜されるが、幾多の試練が待ち受ける。福井大地震に見舞われ、枯れる稲が続出したが、コシヒカリのみが生き残った。しかし育種本来のねらいである多収・耐病性・耐倒伏性の特性は最低であった。秋の熟色が美しいのが唯一注目され、のちにコシヒカリとなる系統に「越南17号」の系統名を付ける。「越南17号」の試験は新潟県をはじめ全国23県で行われたが、その評価は散々であった。地元の福井県でさえ奨励品種への採用を見送る。丈が長く、茎が細く倒れやすい、草型も昔タイプの穂重型でイモチ病に弱い、という評価のためであった。ただ独り、杉谷文之が「新潟県のために、これを奨励品種にしなければならない」と叫んだという5)。
 コシヒカリは、新潟県が奨励品種に採用しなければ農林番号品種になることもなく、埋もれたであろう。コシヒカリが日本一おいしい品種として驚異的な普及を見せているのは、ワンマン場長とも呼ばれていた杉谷が周囲の反対を押し切って強引に「越南17号」を奨励品種に採用したおかげである。では、杉谷はこの系統のどこにほれ込んだのだろうか。  コシヒカリは穂数の少ない穂の大きな穂重型の草型である。杉谷が山形県尾花沢試験地時代に育成した「尾花沢1号」も穂重型品種である。想像ではあるが、穂重型のコシヒカリは杉谷の好みのタイプで、杉谷にとって第1印象としてかなり相性のよい品種だったのでないか。今一つ、この品種を倒さずに安定的に栽培する技術に尾花沢時代に研究した分施栽培法が役立つのでないか。すなわち、元肥一本やりの施肥法でなく、元肥量を減らし、その減らした分を出穂前に施用することで、コシヒカリを倒れにくくすることが可能である。杉谷の鶴の一声は尾花沢時代の研究で裏付けられた技術的自信があったからであろうか5)。
 歴史にifはないが、もし森屋正助が庄内で森多早生を創選しなければ、もし杉谷文之が尾花沢に赴任しなければ、コシヒカリはこの世に生まれたであろうか。

2026年2月16日 10:13