山形の米づくりの歩み ―稲品種と栽培の系譜より― (1)
はじめに
約2500年前の縄文時代後期、大陸から九州から流れ込んだ米づくり文化は、たった1世紀ほど遅れただけの紀元前二世紀には庄内の地へと達した。対馬海流に乗ってきたであろうパイオニアによって。酒田市生石登路田で、北九州の遠賀川(おんががわ)流域で作られた弥生土器とともに、炭化した10数粒の籾も発掘されたのである1)。 稲作は最上川を遡上して内陸部へと拡大していく。県内の水田稲作の遺跡のほとんどすべて川の近傍に存在する。最上川が稲作を伝播するルートであったことは想像に難くない。
17世紀初頭には出羽国が成立、16~17世紀にかけて今の山形の村や町の母体である村々が誕生した。春には苗代を作り、タネもみをまき、田起し、代掻き、田植え、草取りに追われ、ほっと一息つく間もなく収穫を迎える。米作りは重労働であった。時には自然は厳しく、大凶作の洗礼を受けながらも、大地をふみしめて、懸命に生きる農民の強靭な生命力とともに米づくりは今日まで面々と引き継がれてきた。 さて、8世紀の中頃(奈良~平安時代初期)の米収量は約100kg/10aだったとの記録がある。寒冷地の山形はもっと低かったであろう。その後、明治時代に入るまで、単収はほとんど増えなかったという3)。 また、水稲品種は気象的、生態的に異なった各地において、農民自身が、おそらく突然変異や自然雑種に由来する変異体を選抜して育成してきたものであった。米は特に戦国時代以後、武士の禄高が米の石で表現されるほど経済の中心であったにもかかわらず、各藩が

その品種改良に意を砕いたような形跡はほとんどない。したがって、イネの多様な在来品種は明治期までは農民自身がときおり生起する変異を、選抜してきたものがほとんどであったと思われる2)。 明治12年(1879)からは年次ごとの収量が明らかとなる。明治初頭の収量は約200kg/10aであった。福岡県から塩水選、乾田馬耕などの稲作改良技術が導入される。技術革新が進むにつれ、在来の品種では新しい条件に適応せず、新しい技術に適応した品種が求められたのは当然の成り行きでもあった。これに応えた品種が「亀の尾」であった。 明治16年から現在まで、山形県における140年間の米作りの変遷を図に示そう。この間、収量は600kg/10aに到達した。収量が100kgから200kgの2倍になるのに千年要したことを考えれば、約150年で400kg増収したことはすばらしい記録である。収量のみならず、米作りの労力は昭和25年ころの10a当たり労働時間200時間であったのに対し、現在はその十分の一まで削減した。 飛躍的な増収や労力の削減は、品種改良、栽培法の改善、農業機械、除草剤の開発などの技術革新、圃場、灌漑施設の整備があったに他ならない。筆者が山形県の米づくりの技術者として田んぼを歩き回って60数年になる。山形の米づくり2000年の歩みからみれば一歩にも満たない。しかし、この一瞬の時は、米づくりにとって、品種・栽培法の変遷図に示したように一大変革期であった。 筆者の記憶と経験をまじえながら、品種と栽培法改良の系譜を中心とした山形の米づくりの歩みを述べてみよう。

2026年2月10日 12:08








