山形の米づくりの歩み 稲品種の栽培と系譜より(5)

 Ⅳ 冷害の克服
 山形県農業試験場百年史を紐解く。明治29年の創立から百年間の年表には冷害、大凶作の文字が目を引く。18回も現れる。5年に1回の割合で冷害が襲来したことがわかる。山形県をはじめ東北地方の米作りは冷害との戦いであった、といっても過言ではない。なかでも、甚大な被害が昭和9年である。山形新聞は「午後の学校には児童の姿は見えず、最上地方の人々は代用食物採取に忙しい」、当時の悲惨な状況を報道している。この冷害が契機となって、農林省は東北地方の各県に「凶作防止指定試験地」を1か所、山形県にはたびたび冷害に見舞われていた尾花沢に設置された。尾花沢は俳人芭蕉と曾良が元禄2年(1689)、現在の7月初め頃に訪れ、10日間逗留した地としても知られている。曾良は逗留期間中の天気を旅日記に「終日晴明の日なし」と記している。
 本県の冷害克服への本格的な取り組みが開始された。試験地は積雪寒冷地帯に適応する新品種育成を進め、「尾花沢1~5」号の5品種を命名するなど、これらの品種は東北、関東、北陸地方の凶作地帯に普及した。 筆者は、昭和50年代に6年間試験地に勤務した。研究員はわずか3名であった。しかし、そこには創立以来少数の研究員と長年にわたって支えてきた補助員とのチームワークが地の利を生かし、一貫して冷害克服に取り組む姿勢があった。筆者には思い出深い地である。と同時に、昭和51、55年に襲来した冷害に深水管理などの冷害対策はあるものの、実際場面では農家に受け入れがたい技術であることを、甚大な被害を前に痛感させられた地でもあった。試験地は、昭和57年に47年間の歴史に幕を下ろす。

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 それを見透かすように襲ってきたのが平成5年の大冷害であった。この年、オホーツク海高気圧が張り出し太平洋岸から湿った冷たい「ヤマセ」が奥羽山脈の切れ間から吹走、最上町、尾花沢市が甚大な被害を受けた。平成5年の冷害を回避する有効な手段は耐冷性品種であったが、当時の作付け品種は冷害に弱いササニシキが主流であった。耐冷性が強いと言われてきた品種の殆どは、品質・食味の形質は劣っていた。耐冷性と良食味の特性の間には負の相関があって、両立させる品種育成は難しいと神話のように言われ続けてきた。神話を打ち破ったのが「コシヒカリ」である。「コシヒカリ」は冷害に弱い、筆者もそう信じていた。それを一変させたのが、冷害を受けやすい幼穂形成期から穂ばらみ期(出穂前15日頃で花粉形成)に冷水を深く溜めてかけ流す「冷水の深水灌漑検定法」と呼ばれる新たな耐冷性の検定法であった。本方法で「コシヒカリ」が穂ばらみ期低温で発生する不稔障害(第1種型冷害)に強いことが分かったのである。「コシヒカリ」の耐冷性は「極弱」から「極強」へランク付けされた。 耐冷性育種の展望は一気に開けた。山形県が育成した「コシヒカリ」の血を引く「はなの舞」と「はえぬき」の耐冷性は「極強」でわが国ではトップクラス、「はえぬき」の食味は特Aにランクされる。宮城県が育成した「ひとめぼれ」も。その後、耐冷性強と良食味が結びついた品種が次々と育成される。良食味と耐冷性の特性が結びついた品種の誕生で冷害克服への長い道のりは一段落したかのようにも思える。近年は地球温暖化による高温障害が声高に叫ばれている。「冷害は忘れたころにやってくる」、蓋し、冷害の辛酸をなめた先人の教えである。 

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2026年2月24日 09:31