人と風土が育む山形の酒米(6)

    

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 翁が育成した酒米品種の交配親には備前白玉、新山田穂など大阪以西の品種が用いられている。西南暖地の品種は感光性が強いため、庄内地方の自然日長下では、出穂が著しく遅れる。両親の出穂開花が合わなければ、交配はできない。そこで、採用したのが短日処理法であった。翁の手記によれば「7月7日に稲株を鉢に移しそう7日から8月3日まで、午後3時から翌日午前8時まで覆いかぶせ暗くし、8月8日に開花」とある。8月8日より開花した西南暖地の品種は十分交配に間に合ったのである。翁は、昭和9年にも雄町と京の華を短日処理法によって交配している。
 酒米三部作は激しくなってくる戦争と運命を共にする。國の華は酒造米としての真価を発揮する舞台もないまま姿を消す。今、どこの農業試験場の品種保存リストの中にも國の華の名前はない。京の華は戦後も会津地方で10年ほど奨励品種に選ばれていたが、多肥多収の米づくりの中ですっかり姿を消す。
 京の華が幻の酒米として復活したのが昭和59年である。会津若松市で辰泉酒造を経営する酒造家新次氏が、昔、会津で造られた幻の酒造米京の華を、福島県農業試験場の品種保存から少量もらい受け、それを増殖したという。収穫間近の様子を河北新報は「酒どころ会津で、かつて合図銘酒としてもてはやされた京の華が姿を消してから約30年。この幻の酒米が会津若松市内の酒造家の執念で再び栽培され、今秋には収穫、待望の酒造りが始まる・・・」と伝えている(河北新報 昭和59年9月22日)。庄内地方で生まれ育った京の華が幾星霜を経て会津地方で蘇ったのである。品種改良に一生をかけ、多くの品種を育成し永眠した農民育種家にとって望外の喜びであったに違いない。

 

2022年1月20日 12:24