水稲分施発祥の地

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 県内の田んぼは中干をほぼ終え、再び水が入りました。山形市郊外に広がる田んぼでは、動散を背負い畦畔から肥料を散布する農家の姿が見られます(写真右下)。”穂肥”です。
 穂肥は幼穂が育つのに必要な養分を与え、出穂後の稔りを良好にします。増収と品質向上に欠かせない、こめづくりにとって最も重要な技術の一つです。最近では、経営規模の拡大、高齢化などの理由で田植え時に施用する効果の長い一発肥料のみで、穂肥作業を省略する事例が多くなってきています。しかし、穂肥はイネの生長や葉色を観察しながら、予想される気象経過を考えながら、施用量や施用時期を決めるなど、米づくりの匠がもっとも本領を発揮する技術なのです。
 穂肥は、かつては分施と呼ばれ、その発祥の地が山形市江俣とされています。江俣中央公園には、分施の普及に尽力した田中正助翁の碑が建立されています。分施技術は、昭和11年に山形県農事試験場が硫安分施の効果を発表した時を嚆矢とし、戦時中の増産技術として官民一体となって奨励普及に取り組みました。その先頭に立ったのが田中正助翁であり、昭和15年には石黒武重県知事自らが講習会に出席し、奨励するほどの力の入れようであった、と当時の新聞は伝えています。
 戦時中に山形県で普及した分施技術は、戦後の保温折衷苗代の出現とともに、山形県稲作を全国の多収県に押し上げる原動力となった、と言っても過言ではありません。
 

2019年7月12日 15:00