コシヒカリの祖父「森多早生」を訪ねて

 

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今から100年前、1913年(大正2年)に創選された水稲品種森多早生、そのすぐれた特性が、農林1号を通じて、孫のコシヒカリ、ひ孫のササニシキ、そしてつや姫などのおいしいお米の品種に引き継がれていることは意外と知られていません。育成者森屋正助翁(のち多郎左エ門)の功績を称える頌徳碑が建立されたのも、創選後76年を経た平成元年になってからです。
菅洋氏は「歴史に”もし”は許されないが、もしも森多早生が育成されていなかったら、コシヒカリもササニシキもこの世になかった」と述べています。
それほど優れた品種であったにも関わらず、森多早生は、育成者と品種名が誤り伝えられ、やがて忘れ去られようとしたのです。まずは育成者です。育成者が森屋正助ではなく、父親の已之助になっていたことです。育成した当時、正助はまだ22歳であったため、役場の係員が「若者がそんな品種を創るはずはなかろう・・・・・・・・」と父の名前にしたと言われています。
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次に品種名です。森多が森田と記載され、「森田早生」が農林1号の親として広く流布してしまいました。なぜ多が田と誤ったのでしょうか。調査した横尾政雄氏は「当時の山形県農事試験場の業務功程には森多早生となっていた(右写真:山形県農事試験場庄内分場の大正10年の業務功程には森多早生と記載)のに対し、秋田県農事試験場では森田早生となっていた。そして、これを交配親に使った肝心の農務省陸羽支場(現東北農業研究センター大山研究拠点:秋田県大仙市)の調査野帳や原簿でも森田早生となっていた。おそらく、秋田県が山形県から本種を取り寄せた際に、原簿に森田早生と誤って記載され、それが農林1号の親として有名になるにつれて、この誤りがそのまま踏襲されたものと思われる」と報告しています。
さて、1936年(大正11年)に、陸羽支場で森田早生を母、陸羽132号を父として交配した育成材料は、昭和2年雑種第5代で新潟県農事試験場に配布され育てられます。昭和5年に北陸4号の系統名を付し、昭和6年に水稲農林1号として誕生します。
そして、昭和19年、新潟県農事試験場で、農林1号と農林22号を交配、その雑種第3代の種子が福井県農事改良実験所(当時)に配布され、紆余曲折を経ながらも、昭和31年に水稲品種100号、品種名コシヒカリが誕生します。奇しくも、森多早生の子が農林1号、孫が農林100号というラッキーナンバーがついたのも、何か因縁なのでしょうか。

このように、森多早生は、育成者と品種名が二重に誤りをもったまま、長い間伝聞されていたのです。にもかかわらず、正助翁は昭和46年、80歳で没するまで、品種改良に情熱を燃やしていたと言います。
翁の頌徳碑は、庄内平野のど真ん中、庄内町甘六木(とどろき)地内の県道とスーパー農道が交差し、巨大なカントリーを見上げるところに建っています。碑は真実が埋もれなかったことを喜び、周囲に広がる田んぼで成長する孫やひ孫を見届けているかのようでした。

2012年7月30日 09:29