酒米品種を創選した東西の翁に学ぶ

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 「山田穂」を育成した山田勢三郎翁の頌魂碑

 酒造好適米とは?と問われれば、大方の人は山田錦と答えるでしょう。それほど名をはせている山田錦、灘の生一本のみならず、日本中の蔵でおいしい酒を醸し続けています。山田錦は大正12年(1923)、兵庫県農事試験場で「山田穂」と「短稈渡船」を交配し、昭和11年に、実に13年もの選抜・育成を経て誕生しました。
 さて、このたび山田錦の母である「山田穂」が生まれ育った兵庫県多可町を訪れる機会がありました。多可町は山田錦発祥の地を標榜するだけあって、山田錦の一大産地でもあります。
 「山田穂」は、明治10年ころに、中町安田(現多可町)の山田勢三郎が自分の田んぼの中から優良な株を見つけ、選抜し「山田穂」と名付けたのがその由来といわれています。山田穂は酒造家の評判がよく、明治20年代には多可町(現)を中心に広く普及しました。この功績をたたえ、地元の有志によって、明治37年(1904)に頌徳碑が建立されています。
 なお、「山田穂」の由来には他に2説あって、ひとつが美嚢郡吉川町(旧)という説、他は神戸市北区山田町(旧)という説があるといわれていますが、山田勢三郎翁による育成が最も有力と考えられています。
 その後、兵庫県農事試験場は「山田穂」の純系淘汰法によって、大正10年(1921)に「新山田穂1号」、同じく11年(1922)には「新山田穂2号」を育成し、奨励品種に採用しています(兵庫農技総セ研報53)。吉朗兵衛.jpg
 閑話休題:山形県庄内地方の農民育種家工藤
吉朗兵衛翁(右写真)が大正14年に酒の華を育成し
、さらに大正15年には、この酒の華に「新山田穂」を
交配して昭和6年に酒米「京の華」を育成したことは
本ブログ(平24・2・24)で紹介しています。酒の華と
京の華の2品種に注目したいのは、ともに、吉朗兵衛
翁が灘の酒を作る関西の原料米に、その遺伝子を求
めたたことです。酒の華には「備前白玉」、京の華には
「新山田穂」という、岡山県や兵庫県の著名な酒米を
交配に用いています。
 とくに、京の華には父である「新山田穂」の血が1/2入っていると推察されます。残念ながら、京の華については翁自身の筆になる来歴書はありません。このため、父である「新山田穂」は、新山田穂1号か2号かのどちらかであったかと思われます。いずれにしても、「新山田穂」が大正15年に酒の華と交配された時は、兵庫県で育成後、まだ4~5年しか経っていないのです。京の華は、山形と兵庫という、東西の酒造好適米の双方の血を受け継いだ、わが国最初の酒米品種であったのでないか。
 「山田穂」を創選した山田勢三郎翁の碑には「……自作田はもとより小作人にも種子を配り、あわせて近隣の農家にもわけあって栽培を勧めるとともに……」と刻まれています。吉朗兵衛翁もまた、金もうけのためや栄誉のために品種改良をしたのではなく、自分の田や庄内の気候風土に適した品種を求め、それに生涯をかけたのです(菅 洋)。辛苦しながらも成し遂げた東西の翁に共通する原点、それは私利を離れ、酒米というイネに魅せられた、ということではないでしょうか。
 蛇足ながらもうひとつ、山田錦の品種候補名は「昭和」であったということです。それがなぜ山田錦になったのでしょうか。「昭和」という候補名が見送られた背景には、山形県が昭和10年に奨励品種に採用した「昭和ニ号」(佐藤弥太右衛門育成)があったためでないか、そこで、母の山田穂に由来する山田錦に変更したのでないか、と言われています。山田錦の命名にも、山形と兵庫との因縁めいたものがあったようです。
 多可町の訪問は、短時間でしたが、酒米作りに取り組む農家一人ひとりに脈々と流れる伝統と熱い思いを感じた旅でもありました。
 

2012年3月 9日 15:09