地震から這い上がったイネ"コシヒカリ"

 このたびは東日本大震災により被害を受けられた皆様に心よりお見舞い申し上げます。震災にめげず、明日に向かって歩もうではありませんか。春はあと少しです。


 さて、不出世のコメとまで称されているコシヒカリ、あまたある品種の中で、コシヒカリほど地震など、多くの危機を乗り越えてきた品種はないでしょう。コシヒカリが今日あるのも、幾多の危機から逞しく這い上がってきたからなのです。

 第2次世界大戦末期の昭和19年、新潟県の長岡の試験地で農林1号と農林22号の交配がひっそりと行われました。しかし、この交配で稔ったタネを育てようにも敗戦の混乱の中でそれどころではありませんでした。一年間播かれないまま放置されたのです。人工交配で稔ったタネは一年もするとその生命力は著しく低下します。致命傷なのです。これがコシヒカリの第1の危機でした。それでも、昭和20年、何とかこの雑種の第1代(F1)が誕生します。きっと、生命力の強いタネだったのでしょう。

 そして、昭和23年、F3のタネの一部は、当時新しく水稲育種に指定された福井県農業試験場に分譲されます。生みの親の新潟から育ての親の福井で、F3のタネは順調に育つはずでした。苗が育ち、分げつが最高になろうとする6月28日、襲ったのが福井大地震でした。マグニチュード7.1の直下型地震は試験田を壊滅状態にしたのです。田植されたイネのほとんどは、水のないまま夏の日照りで枯死しました。コシヒカリ第2の危機でした。ところが、F3は幸運にも、水はけの悪い強湿田に、少し早目に植えられていたため、辛うじて助かったのです。「もし、もう少し遅く植え、また水はけの良い田を選んでいたら、コシヒカリはこの世に生れなかった」と育成者は回顧しています。

 生き延びたF3はその後、F4、F5と選抜が加えられ、「稔りの色が美しく、大きな穂をもつ」イネへと育ち、越南17号の系統名が付され、北陸・東北の各県の試験場で試験されます。ところが、この系統は丈が長く倒れやすい、イモチ病に弱いという欠点が目立ち、食糧増産が叫ばれている当時からみれば、その評価は散々たるものでした。品種に採用しようとする県はありませんでした。コシヒカリ第3の危機でした。この危機を救ったのが唯一新潟県でした。昭和31年、コシヒカリと命名されます。幾多の危機から這い上がっての誕生でした。

 しかし、品種名はついたものの、その後の普及は思わしくありませんでした。育ての親の福井県でさえ、奨励品種に採用するのを見送ったほどでした。また、コシヒカリを母本とした品種も皆無、コシヒカリからは子供は生まれないとまで言われました。

 コシヒカリが一躍脚光を浴びたのが、誕生して20年近くも経ち、米の生産調整が始まった昭和40年代後半です。コシヒカリの最大の特性であったおいしさが、消費者を引き付けたのです。たちまちのうち、米の世界を席巻するまでになりました。のみならず、コシヒカリは冷害には最強と評価され、コシヒカリを母本とする品種が次々と誕生しました。「はなの舞」・「ひとめぼれ」・「はえぬき」などです。これらの品種は、コシヒカリが倒れやすい、イモチ病に弱いという欠点を改良し、おいしさと冷害の強さを取り入れたものです。そして、山形の「つや姫」もまた、コシヒカリの血を濃く引いているのです。

 幾多の危機に遭遇し、乗り越えてきたコシヒカリ、地震に打ちひしがれている私たちに”未来はきっと開ける”、そう語りかけているのかも知れません。

2011年3月22日 09:58