冷害研究ここにありき(2)

 杉谷文之.JPG降り続く雪、前回紹介した尾花沢の町は2m
近い雪におおわれています。”冷害研究ここにありき”をもう少し続けましょう。
 尾花沢試験地の初代主任が杉谷文之氏、農林省農事試験場鴻巣試験地から赴任し、昭和17年まで勤務し、尾花沢1号などの品種育成を手掛けました(真前列右から2人目、尾花沢試験地に赴任した時)。 その後、新潟県農業試験場へと移り、コシヒカリを誕生させた場長として名を馳せます。
 コシヒカリは品種となる前は「越南17号」という系統名で呼ばれていました。北陸の各県や山形県の農業試験場などが、この系統の地域適応性を試験します(28年)が、食味・品質は優れているものの、丈が長く倒れやすい、イモチ病に弱いなどから「芸者稲」などと揶揄され、その評価は惨憺たるものでした。まだ食糧増産が叫ばれている当時からみれば、おいしい米よりも一粒でも多くとれる多収品種を各県では欲しかったのです。
 不評であった「越南17号」を奨励品種にしたのが新潟県でした。というよりは杉谷場長が強引に品種にしたともいわれています。
 どの県も採用を拒否した品種を、どうして奨励品種に採用したのだろうか。頑固者で、ある意味で変哲者の杉谷氏であったからこそ、欠点を併せ持つコシヒカリをいったん品種にしようと決意したら最後、その姿勢を強引に貫きとおした、否、杉谷氏がかって育成した「尾花沢1号」の稲姿と「コシヒカリ」が似ていたからでないか、酒井義昭氏は著書コシヒカリ物語でこう述べていますが、前者の説が有力のようです。    
 いずれにしても、杉谷氏がいなければ、到底品種にはならなっかたコシヒカリです。そのコシヒカリがわが国の米を席巻しているばかりでなく、山形県の「はえぬき」・「つや姫」をはじめ、「ひとめぼれ」・「あきたこまち」など多くの良食味品種をも生んでいます。
 偉大な品種が誕生し、普及していく道には幾多のドラマがあるといわれています。尾花沢試験地とコシヒカリの誕生、そこには杉谷文之氏を通じてのドラマと絆があったのでないか、そう思うのは私の一人よがりでしょうか。
 
 

2011年1月31日 10:38