水稲分施発祥の地

 7月10日、梅雨明けのような爽やかな青空が広がっています。中干しを終えた田んぼには再び水が入りました。米づくり、いよいよ後半戦です。イネは10葉が抽出しました。この頃になると、葉色は、濃い緑がやや黄色味を帯びるようになります。これは、葉や茎を盛んに増やしてきたために土の中の肥料分が切れてきたこと、また、株元には幼穂が生まれ、育ってきたためです。
 そこで、葉や茎が緑を取り戻し元気に育つよう、幼穂に着生しているもみが退化せずに育つよう、窒素肥料を追肥します。穂肥と呼んでいます。穂肥は適切に施用すると、生まれたモミの退化を防ぐ、もみがらを大きくする、稔りを高めるなどの効果があり、米づくりの必須技術です。収量・品質・食味を向上させる切り札でもあります。反面、もろ刃の剣で、肥料の量が多すぎたり、時期が遅れたりすると、コメのタンパク含量を高め、食味を低下させます。倒伏を引き起こしたりします。田中正助.jpg
 穂肥の施用時期や量は、10葉期頃(7月10日)の草丈、茎数、葉色、幼穂の成長具合、そして予想される気象などを勘案して決定されます。このように複雑に変化する要素が絡み合うことから、穂肥はコメづくり農家の腕の見せ所、と言っても過言ではありません。
 たとえて言えば、お医者さんが患者さんの容態を診察し、薬などを処方するのと同じです。このことから、穂肥前にイネの成育を観察・調査することを”成育診断”とも呼んでいます。このように、穂肥の施用は、コメづくり農家にとって重要な技術であることから、青田巡回と言って、研究会などグループがお互いの田んぼを見て回りながら、助言しあって決めている事例もあります。
 ところで、この穂肥技術、今では全国的に普及していますが、その発祥の地が山形市であることは意外と知られていません。穂肥の普及に尽力した田中正助翁(右写真)の功績を讃え、山形市江俣の中央公園に、「水稲分施発祥の地」の碑が建っていることも。
 碑には「・・・・・昭和8年この試験田で、田中正助翁が水稲分施技術(穂肥)を確立したことによってその成果が広く知れ渡り視察者は後を絶たなかった。・・・・・・戦後の食糧不足のなか分施技術は近代稲作技術との脚光を浴び全国に普及された・・・・」と。
 山形県稲作の単収を全国トップまで押し上げた技術、それは保温折衷苗代による健苗の育成と穂肥の組み合わせであったと言われています。
 かって、先人たちが米づくりに汗し、穂肥技術を生み育てた田んぼ、そこには郊外型の大型店が立ち並び、住宅地となり、昔日の面影は見られない。
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2015年7月10日 15:47