米づくりへの情熱

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米づくり、そこには一粒でも多く収穫したい、一粒でもおいしい米を作りたい、という農家の思いがあります。豊作を喜び、冷害に涙しながら、米づくりに打ち込んできた歩みを振りかえってみましょう。そこには、ドラマがあります。


水稲単収の推移、品種・栽培法の変遷
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【福岡県から導入した革新技術と亀の尾の普及】

 「山形の米づくり」のスタートは、雪解けをまって行われる「塩水選」の作業です。充実した種子だけを選ぶこの方法は、明治15年福岡県において横井時敬によって考案されました。「わが国の農業技術の中では、最も古く、最も長命で、現在でも広く普及している技術」です。この「塩水選」が庄内に入り普及したのは明治24年頃(滝沢洸:庄内稲作技術のあゆみ)からです。

塩水選
塩水選

 また、乾田馬耕を普及させるため、明治23年には福岡県から馬耕教師を招き、庄内の各地に模範田、伝習田を設け、その実技を農民に伝えました。

 同じく明治26年以降には「亀の尾」の作付けが広まります。これらの改良技術は、収量を150kg台(10アール当たり)から200kg台へと押し上げました。なかでも、明治34年には294kg、同37年は305kg、同42年は314kgという豊作を記録しました。
反面、収量は安定しませんでした。明治35年には178kg、同38年には184kg、44年は253kg、豊作の翌年は凶作が続きました。いずれも冷害によるものでしたが、明治44年の不作は、庄内地方でいもち病が大発生したためでした。

 乾田馬耕という革新技術は、土の中の窒素を有効化したため、「亀の尾」はその技術に適応できず、いもち病や冷害を助長しました。冷害といもち病の洗礼を受けた「亀の尾」の作付けは、この年の4万7千ヘクタールを最高に減少していきます。

【大冷害の襲来と収量・技術の停滞】
「亀の尾」に代わって、品種は「豊国」、「早生大野」、「イ号」、「福坊主」、「日の丸」、「大国早生」、「陸羽132号」など、冷害に強い、病気に強い、倒れにくいなどの特性を持つ多収タイプへと移ってゆきました。これらの品種は、唯一、陸羽132号以外はいずれも庄内の農民が育成したものでした。

 大正3年(1913)には奨励品種制度が発足しました。山形県は「亀の尾」、「早生大野」、「豊国」および「平田早生」の4種を選定しました。この制度は現在まで継続しています。これまでに選定してきた品種は65種、「つや姫」が加わると66品種になります。
優良品種の選定などによって、大正から昭和初期の収量は漸増安定期を迎え、320~330kgで推移しました。
昭和8年は好天に恵まれ、370kgという未曽有の大豊作でした。一転して、同9年は181kg、歴史上にも名高い冷害による大凶作に見舞われました。とくに、最上地方での被害は甚大でした。野山のわらびの根を掘りかろうじて命をつなぐ、子女の身売りまで、という惨憺たる状況でした。
冷害のみならず、昭和12年の日中戦争から20年の終戦まで、「米づくり」は苦難を極めました。

【米増産の救世主となった保温折衷苗代】

 戦後の食糧難克服に貢献した最高の稲作技術は「保温折衷苗代」とも言われています。長野県の農家、荻原豊次が、冷害の年に、たまたま野菜温床苗代に混入した一粒のもみから成長した苗にヒントを得て考案したといわれています。苗代を被覆する油紙はやがてビニールへと変わってゆきますが、この育苗技術は、山形県をはじめ寒冷地稲作の救世主となったのです。
保温折衷苗代によって、育苗は安定化し、田植は6月上旬から5月中下旬へと早まりました。健苗早植によって、生育は早まり、稲作は一段と安定してきました。

保温折衷苗代の作業(油紙の被覆)
保温折衷苗代の作業(油紙の被覆)
保温折衷苗代
保温折衷苗代

 

 さらに、BHC、パラチオン剤、有機水銀剤などの有機合成農薬の出現、とりわけいもち病の特効薬といえる有機水銀剤は、施肥法にも大きな変革をもたらしました。戦時中に普及を見なかった窒素肥料の分施法は定着し、米づくりは多肥化へと進みます。
品種は、民間育成種から国公立研究機関の育成品種へと移行してゆきます。多肥栽培に向く短稈の「農林41号」「さわにしき」(元山形県農業試験場尾花沢試験地)などが奨励されました。
収量は、保温折衷苗代が普及した昭和25年ころの350kg台から、同29年には412kgと、一気に400kg台に駆け上がりました。以降、収量は年々上昇しつづけ、昭和41年には514kgと、ついに500kg台に到達しました。
戦後の食糧難は、一粒のもみから育った苗、これを見逃さなかった農民の情熱が救ったとも言えるでしょう。