増産から生産調整へ

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【増産から一転して生産調整へ】
育苗技術、防除技術の進歩により、飛躍的な収量の伸びをみせたあとを受け、昭和40年代に入ると収量は飛躍的に上昇します。
昭和41年には514kgと500kgの壁を破りました。さらに上昇を続け、同42年から45年までは連続単収日本一となり、この間の平均収量は560kgでした。
多収には県農業試験場も競って挑戦し、置賜分場の1007kgを最高に、尾花沢分場959kg、農業試験場944kg、庄内分場814kg、最上分場812kgを実証しています。

多収を得た技術背景の一つが、山形県で開発した多肥強稈品種「でわみのり」、「たちほなみ」、「でわちから」の奨励です。いまひとつは、施肥技術の改良です。生育の重要時期に追肥する"追肥重点施肥法"へと変わり、追肥回数は増加しました。
さらに、「山形県60万トン米作り運動」(昭和42~43年)という、官民挙げての増産運動も後押ししました。
米の増産は、山形県に限ったことではありませんでした。各県とて状況は同じでした。増産から、一転して生産の抑制へ、昭和45年からは米の生産調整がスタートします。一粒でも多くという増産から、消費者ニーズに対応して、生産目標を量から質への米づくりへと180度転換することになったのです。

【ササニシキの普及と機械化稲作の進展】

 生産調整とともに、「でわみのり」などの多収品種は一斉に姿を消しました。代わって、良質品種「ササニシキ」(元宮城県農業試験場古川分場:昭和38年)が急速に普及拡大します。
この頃、田植機械が開発され、昭和40年代後半には、田植は手植えから機械植えへと全面的に移行しました。米づくりのなかで最もきつい作業からの解放でした。田植機の普及は急拡大し、昭和50年には全水田面積の91%に達しました。

一家総出の田植え風景
田植機の普及の初め頃
(滝沢洸:庄内稲作技術のあゆみから)

 

 同時に、大型トラクターや大型のコンバインも導入され、稲作における主な農作業は、全てが機械化されました。当時、田植機、トラクター、コンバインの農機具は米づくりの3種の神器とまで言われていました。稲作の機械化は、その一方で米づくりの兼業化を急速に進行させることとなったのです。